
兵庫区にある、CODE海外災害援助市民センターで事務局長を務める吉椿雅道さんとスタッフの山村太一さん。吉椿さんは2004年にCODEのスタッフとなり、これまで多くの被災地で活躍してきました。そんな吉椿さんを中学生の頃にテレビ番組で見かけた山村さんは、その姿に感銘を受けCODEと関わるようになったといいます。
兵庫区にある、CODE海外災害援助市民センターで事務局長を務める吉椿雅道さんとスタッフの山村太一さん。吉椿さんは2004年にCODEのスタッフとなり、これまで多くの被災地で活躍してきました。そんな吉椿さんを中学生の頃にテレビ番組で見かけた山村さんは、その姿に感銘を受けCODEと関わるようになったといいます。
阪神・淡路大震災当時、地元福岡にいた吉椿さん。親友が神戸にいたこともあり、95年以前もよく神戸を訪れていました。震災当日の朝、テレビをつけると被災した神戸の映像が流れ、すぐ親友に連絡を試みましたが繋がらず、安否が確認できたのは3日後でした。その後、「通い慣れた神戸の街が大変なことになっている、何かできることはないか。」と思い立ち、1週間後、人生で初めて被災地支援のボランティアを仲間4人で開始しました。
当時、吉椿さんたちは兵庫区に住む中国人留学生の家に身を寄せていました。そこではライフラインが早くに復旧したので、そこで大きい鍋にお湯を沸かして車に積んで避難所に持っていきました。足湯の提供を始めると、体育館には長蛇の列ができたそうです。
吉椿さん:被災者の人に向き合うって結構緊張するじゃないですか。何を話していいか、どう声かけていいかもわからない。その時に、当時僕ボロボロのジーンズを穿いていたんですよ。そしたら1人のおばさんが、「兄ちゃんどっから来たん、ジーンズそんなボロボロやからこうたろか。」とか言ってくれるんですよ。まさか被災した人が僕に気遣ってくれるなんて思ってなくてびっくりして。その足湯ボランティアで一人ひとりに向き合うことは、ものすごく僕の中では印象的でした。
1995年1月19日に結成された「阪神大震災被災地NGO救援連絡会議」を前身とする、CODE海外災害援助市民センター。「最後の一人まで」の理念を掲げ、阪神・淡路大震災での経験を活かし、国内外問わず様々な地域で活動されています。現在のその支援活動の対象は、2008年の中国四川省大地震、2022年から始まったウクライナ戦争、2023年のトルコ・シリア地震、2024年夏に東南アジアを襲った台風11号(ヤギ)など世界各国の様々な災害の被災者です。
吉椿さん:阪神・淡路大震災の時は70、東日本大震災の時は174の国と地域が支えてくれたんです。てことは、世界の途上国といわれている国の人たちも助けてくれたんですよ。そういうことを考えると、やっぱり海外で災害起きたら他人事じゃないと思う。
僕らはもう30年間ほとんど寄付金だけで支援活動をやっているんです。それは、神戸の被災経験をした人たちが、あの時自分たちも大変やったから海外で起きたら他人事じゃないと言って寄付してくれたお金で。僕らはその思いを託されているので、CODEの役割としては国内だけでなく、海外の支援もちゃんとやることだと思っています。
海外では “Kobe earthquake” とも呼ばれる阪神・淡路大震災。「こうべ」という言葉は震災のイメージとともに世界中で知られています。海外で被災地支援を行う際に、当時の神戸について聞かれることも多くあるそうです。
吉椿さん:僕らよく被災地神戸を漢字の神戸ではなく、横文字の“KOBE”で表すんです。漢字の神戸だったら神戸市だけになってしまうけど、KOBEというと阪神・淡路大震災の被災地全体をさすことになる。だからKOBEの人というと、被災者だけじゃなくて、ボランティア、行政、研究者、阪神・淡路大震災に関わる色んな人を表している。僕はそのことを頭では理解していても、神戸の人間じゃないから神戸は大丈夫だったかと海外で聞かれても答えられなかった。知識としては答えられるけど、自分の言葉じゃないからすごくしんどかったんです。でも、ずっと海外と日本を行ったり来たりする中で、神戸の阪神・淡路大震災に立ち返るから自分の中でKOBEの意味がだんだん理解できるようになってきて。
震災を経験していない若い世代への語り継ぎはどうしたらいいんですかって聞かれるけど、震災を知らなかったら語れないのかってことじゃないと思うんですよ。被災地支援をする中でやっぱり神戸(阪神・淡路大震災)に立ち返る。神戸ではどうだったのか、阪神・淡路大震災とは何だったのかということを勉強して行きつ戻りつしている中で、徐々に自分の中に神戸ってことが宿ってくる。だから、別に直接経験してなくたって語ることはできると思います。
この先のボランティアのあり方、役割についても語ってくださいました。
山村さん:今ずっと、能登半島地震の足湯ボランティアっていうのをしているんですよ。大学生とかと一緒に行って一緒にボランティアするっていうのを。それは絶対今後も続けていくだろうし、仮に打ち切っても、その人間関係が終わるわけじゃないので、支援活動が仮に終わってもつながりは大事にしていきたいですね。
吉椿さん:支援活動や被災地の状況は、いろんな伝え方があるけれど、行った人が伝える役割を担っていると思っています。家族や友達に伝えるとか、SNSで発信するとか。神戸の阪神・淡路大震災の一つの教訓として、被災地責任って言葉があるんですよ。被災地の人は次の被災地、未災地につなぐ役割、責任がある。ボランティアの人にそこまでの責任を押し付けるつもりはないけど、でもやっぱり行った人はね、行った人にしかわからないことあるから、せめて伝えてほしいなと思います。
10年後、20年後の話でいくと、今能登でも頑張ってくれている若い世代が少しでも成長できていくような環境を整えることが僕らの役割かなと思います。
普段、講演会やイベントの企画などで防災啓発活動にも取り組んでいる吉椿さん。防災に取り組むにあたっての心構えをお聞きしました。
吉椿さん:防災っていうのは生活(暮らし)全般だと思うんです。防災だけ学んでいると思っているだけじゃダメで、実はまったく関係のないことも防災に繋がる。防災は隠し味なんです。防災を前面に出すのではなく、普段の地域活動、いろんな行事の中に防災の要素をちょっと入れていくんです。阪神・淡路大震災の時から言われている教訓で、“顔の見える繋がりが最大の防災である”って言葉があります。日頃からなんでもいいんですよ、地域の中でいろんなイベントがあるじゃないですか。そういうので繋がっておくことが実は防災に繋がっている。災害時にその繋がりってね、生きるじゃないですか。
吉椿さん:とにかく現場に行く。被災地だけじゃなくて何の現場でも。自分の目で見て、自分の耳で聴いて、自分で感じる。それしかないと思っています。今いろんな情報がネットで手に入るし、いろんなものを頭では理解することはできる。でもそれってリアリティないので。
山村さん:チャンスがあるのだったら、絶対に現場に行くべきだと思います。実際来た人の中に、他の人にも体験してほしいとか友達も誘いたいとかって思う人はいるんですよね。そうやって、人と人とがこうやって繋がっていって。それで成り立っているところもあるので、地道に活動することが大事なのかなと思いますね。
吉椿さん:CODEは、“最後の一人まで”って言葉をね、阪神・淡路大震災の教訓として、高い理想を掲げているんです。現実的には難しいのですけど、公助やいろんな支援が取りこぼしている人は必ずいるから最後の一人まで救援する。でも最近は最初の一人も大事だと思っています。最初の一人がその一歩を踏み出したら、その後に誰かついてくるんですよ。俺も行ってみようかなとか。その最初の一人にならなくちゃいけない。それになれるかどうかですよ。ぜひ最初の一人になってください。
吉椿さん:最初に長田区の避難所の体育館に入った時に、とにかく寒かった。風邪も流行っていて、皆さん咳をしたりとかで、避難所は独特の空気だった。その空気に圧倒されて、なにもできないみたいな感じだったんですけど、帰るわけにいかないじゃないですか。最初は、マッサージとかをしていたのですけど、1人の先輩が「足湯やったらええんちゃうか。」って言ったんです。